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そこには、房一の紅黒い、怒張した顔があつた。いつのまにやつて来たのだらう、徳次はぎゆつと片手で押へつけられたまゝだつた。そして、房一の怒声を聞いた。
と、小谷が徳次の足に目をつけて云つた。どこで手に入れたのか、徳次は白い紙緒の藁草履をちやんとはいていた。
と、呟き、房一に向つてしきりとうなづいていた。
今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つている庄谷の背中を見つめていた。するとその肩に一本の糸屑がくつついているのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。
と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。
と、小谷が云つた。
と、房一は訊いた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
と、全然ここの温泉を軽蔑しきっていたそうで、婆さんが絶え間なくタオルで全身摩擦しながら意地ずくでつかっている温泉とは何度ぐらいだろうと興にかられたが、調査もせずに引越した。
聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つていたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでいた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはりだつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意している様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではいないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはいないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。