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盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いていた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいていた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じていた。
さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。
「さうですか。それは――」
もつと別なものが、医者以上の或る者が必要だつた。房一は全身でそれを感じていた。たとへ彼が自分を高く持していたところで、河原町の人は彼を高間道平の息子としてより以上にはあまり見ていないことは、房一にはよく判つていた。彼には免状もあるし、開業するのを誰もとめ立てすることはできなかつた。それだけの話だつた。それは町の人達がこれまで抱いて来た「お医者」の観念とはまるきり別だつた。だから、彼等はいまだに房一が往診鞄などを提げて歩いているのにぶつかると、何となく半信半疑な面持を、時には曖昧なうすら笑ひを浮べたりする。
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
「これですか――?」
「眼が潰つぶれちまふ――ねえ、先生」
房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つていた。そして葉の落ちた無花果いちじくの木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つている中空に張つていた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつている台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土たたきの上に一種きは立つた明さで流れていた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場の煤すゝけた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいていた。
と、無邪気に、呆あきれたやうに云つた。
「え?いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
共同風呂のまん中には「独鈷とっこの湯」の名前を生じた、大きい石の独鈷があります。半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖そでだたみにし、遺書は側そばの下駄げたの鼻緒はなおに括くくりつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことでしょう。わたしの宿の主人の話によれば、半之丞がこう言う死にかたをしたのは苟いやしくも「た」の字病院へ売り渡した以上、解剖かいぼう用の体に傷をつけてはすまないと思ったからに違いないそうです。もっともこれがあの町の定説と言う訣わけではありません。口の悪い「ふ」の字軒の主人などは、「何、すむやすまねえじゃねえ。あれは体に傷をつけては二百両りょうにならねえと思ったんです。」と大いに異説を唱となえていました。
根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。