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「何だらう?」
「何しに来た!」
「いかんと云ふわけもあるまいさ」
道平はゆつくりと首を動かして訊いた。
「どうもおれは、身近かな者だと平気で診られないんだね」
「どうも、済んまへんでした」
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」
が、自分の家の前あたりまで来たとき、かなり先きの通りに四つ五つの人影が黒くかたまつて立つているのを見た。何をしているのか判らない。房一はそのまゝ家の中に入つた。
今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。
徳次は自分のことのやうに熱心に路順を考へた。
練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせていた。突嗟とつさに房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つているのかを了解した。
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少い。そんな座敷があったとしても、それは僅わずかに二間か三間で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚だしきは三畳などという狭い部屋もある。